1989年9月9日、日本女子サッカーリーグ(なでしこリーグ)が生まれた。この記念すべきシーズンに清水フットボールクラブでプレーし、最優秀選手となったのが半田悦子氏だ。
サッカーどころ静岡県出身とあって、小学生の頃からリーグ戦が存在し、他の地域よりサッカーに触れあう機会には恵まれていたかもしれない。
それでも初めての国内トップリーグ誕生に24歳を迎えた半田は期待感でいっぱいだったという。
「当時はバブル真っ盛りで、各チームは地元企業のバックアップを受けていました。リーグが出来るまではフルタイムで働いて夜に練習、週末は試合で、アフター5にサッカーをやっている感じだったんです。それが、スポンサーがついて、仕事は午前中だけで残りの時間はサッカーに費やすことができるようになった。私たちがやってきたことが初めて認められたような気がしました」。
試合は整備された芝のピッチで行われるようになり、同会場で一気に3試合(開幕当時の参加は6チーム)が開催されたが、同会場の他チームの試合を見る貴重な機会は互いに刺激を与え合った。

半田の歩む道には常に上昇気流があったように思う。「とにかく周りのサッカー環境が目まぐるしく変わって行った」と半田が語るのもうなづけるのだ。日本女子代表が発足して初めてのアジア選手権(現AFC女子アジアカップ)、初めて正式種目となったアジア大会、オリンピック、そして初めて開催された世界選手権(現FIFA女子ワールドカップ)----日本女子サッカー界にとっての第一歩となるいずれのピッチにも半田は立っているのだから。
「運がいいんですよ。初めてのアジアカップのときは、高校生以上しか行けないって言われて私は16歳でギリギリ行けた。そもそもこのとき私はサッカーから離れてて陸上部に入ってたんですけど、中学3年の部活動が休みのときに『試合があるんだけどやらない?』って清水第八スポーツクラブに誘われて出た大会で優勝して、それで代表に選ばれたんです(笑)」
危うく日本女子サッカーの土台を築き上げる逸材が陸上界に流れるところだった。しかし変革の初年度となるこのアジアカップからの10年は想像しえないスピード感で女子サッカー界は躍進していく。その最たるものが世界選手権----いわゆる女子ワールドカップの開催だ。
「これも最初はあるある詐欺だったんですよ(笑)。ワールドカップが出来るという話は聞くけど、それはいつ?どこで?と確信の部分は誰も知らないっていう時期が長かったから。当時は代表メンバーも半分くらい固定されていて、代表はもう一つの自チームみたいなもの。木岡(二葉)さん、高倉(麻子)さん(元日本女子代表監督)、野田(朱美)さん(現バニーズ群馬FCホワイトスター監督)たちと『イメージ沸かないけどワールドカップが出来るなら出たいよね』って話してました」。

始めから目指すべき目標があった訳ではない。走り始めた先にどんどん主要大会が掲げられていく10年だった。
そんな中、日本女子サッカーリーグには世界でその名を轟かせる選手たちが続々と加入した。清水には当時のアジア強豪国だったチャイニーズ・タイペイのエースである周台英がやってきた。
「代表で彼女と戦って、その凄さは知っていましたから・・・。1対1をやっても身体が強すぎて全然奪えない。アジアナンバーワンと言ってもいい選手と一緒に練習する日々は大きな経験として残りました」。
その後、プリマハム・FC・くノ一(現伊賀FCくノ一三重)が中国代表のMF李秀馥、カナダ代表のシャーメイン・フーパー、日興證券ドリームレディースがワールドカップ準優勝国ノルウェー代表からFWリンダ・メダレン、ヘーゲ・リサらを獲得するなど、まさにワールドクラスの選手たちが集った。
「どこのチームも他国の代表選手が出稼ぎに来てましたね(笑)。国に帰ったら家が建つって言ってました。間違いなく、日本のリーグは世界のトップだった。外国籍選手のおかげで日本女子サッカーのレベルは一気に上がって、チームメイトはもちろん対戦チームも日本人選手の誰もが成長した時代でした」。

第8回L・リーグ 清水vsプリマ

半田氏が実際に着用していたユニフォーム
この成長期を基盤に強さを蓄えて行ったのが日本女子代表(なでしこジャパン)だろう。2011年の女子ワールドカップを制覇したメンバーの澤穂希氏も半田と共にこの時代を経験している。
「澤とは代表でも一緒にプレーしてましたし、シドニーオリンピックに行けなくて苦しい時代になったしまったときも陰ながら応援していました。アテネオリンピック最終予選で国立競技場で北朝鮮に初めて勝って出場権を獲った試合も現地で見ていました。2011年のあの瞬間はテレビで観ていて、万歳しましたよ!震災直後ということもあり、目に見えないパワーがドイツに集結した感じはありましたけど、だからと言って急に勝てる訳ではありません。今まで積み重なってきたものがあの優勝につながったんです」。
優勝メンバーだけでなく、多くのOGたちの想いが一気に昇華したワールドカップだった。

日本女子代表で国際Aマッチ75試合出場19得点(1981~1996)の成績を残した
引退後、半田自身は指導者の扉を開き、地元静岡県で中高生の指導に携わる。初のプロサッカーリーグであるWEリーグ発足時には、ちふれASエルフェン埼玉の指揮官として招聘され、ここでもWEリーグ"初"の女性監督として第一歩を記す。そして今年からは理事の立場で再びなでしこリーグと関わっていく半田の目に、現状はどう映っているのだろう。
「36年経った今は配信などで見切れないほどの試合を目にすることが出来ます。観点が大きく変わりましたよね。地域との関わり方もバージョンアップしている中でよりし続けないといけない難しさを感じます」
WEリーグ発足により、多くの強豪チームはプロ化に舵を切った。国内トップリーグとしての役割はWEリーグに移ったが、なでしこリーグの新たな責務、その存在価値を半田はどう見出しているのか。
「WEリーグはプロとしてステイタスを持って成長できる場、それとは別にアマチュアリーグの必要性を感じています。清水時代、社員の方が集まってくださって、実際には届かなかったのですが1万人の動員を目指したことがありました。私が仕事をすることで直接接する場所にはつながりが生まれます。その地域に、会社にいると必ず応援してくれる人はいる。なでしこリーグの選手は働きながらサッカーをすることが多いので、見方を変えればより深く地域とつながって女子サッカーを身近に感じてもらえるかもしれないですよね」
これまでの日本女子サッカーの魅力はまさにこの"関わり"が根底にあった。選手が社会と直接的な接点を持つことが多いなでしこリーグの最大の強みである。競技者として、また人間形成においても社会との関わりはなくてはならないものだ。そして今やプレー面ではなでしこリーグで活躍すればプロとしてWEリーグへの道も開ける流れが構築されている。
「なでしこリーグからWEリーグへ、WEリーグから世界へ、今は"出る時期"だと思うんです。でも必ず帰ってくる時期がやってくる。海外で引退をする選手もいるでしょうが、最後のシーズンは日本で、育ててもらったチームで、生まれ育った故郷で、と思う選手もいるでしょ?そのときにウェルカム!と出来る土壌を作りたいんです」
半田が中高生の指導にあたっていた際、こだわっていたのが全国から戦力を集めるのではなく、地元の選手でチーム作りをすること。おらが町の選手は愛されるということだ。現役時代も今も、変わらず半田の身体の中心には"人との関わり"がどっしりと据えられている。

地域とともに歩みを進めるなでしこリーグのピッチに立つ未来の子どもたちに、先輩としてどうしても伝えていきたいことがあるという。
「世の中には自分の力ではどうにもできないことがある。そういうときに感じるのがやっぱり応援される選手であろうということ。常に感謝の気持ちを持って一生懸命プレーすることはもちろんのこと、大事にしてほしいのは子どもたちの見本となる人であること、です」
終始笑顔で、軽やかに、偽りなく言葉を紡ぐ人だ。黎明期を支えた選手たちに苦労がなかったはずがない。けれど彼女から語られるエピソードには重みだけではなく、どこか清々しさがあり、純粋にサッカーと向き合ってきた時間が鮮やかによみがえる。最後に「人と関わらなければ何も始まらないですよ」と当たり前のことのように彼女は笑った。とてもシンプルでありながら、決して簡単ではないその信条こそ、長く日本女子サッカーリーグの中枢に据えられ、つないできた想いそのものに見えた。

第1回大会での最優秀選手賞トロフィー
文・撮影=早草紀子
◆半田 悦子(HANDA Etsuko)氏プロフィール
生年月日: 1965年5月10日(静岡県出身)
ポジション: FW
【経歴】
清水第八スポーツクラブ~清水FCレディース/鈴与清水FCラブリーレディース
【主な競技歴・記録】
◆日本女子代表 国際Aマッチ75試合出場19得点(1981~1996)
◆日本女子サッカーリーグ 131試合出場73得点(1989~1996)
一般社団法人日本女子サッカーリーグ 




